縁があってシュタイナー学校の子供達と「家作りのエポック授業」をこれまでに三回行って来ました。その体験を一般の方を対象として「日本の風土と子どもの成長」というテーマで講演会を行いました。講演会は民族文化映像研究所制作の映画「秩父の通過儀礼—子どもザサラから水祝儀まで」の上映と共に行いました。今回講演の原稿をまとめたものを公開いたします。
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 〈目次〉
はじめに
秩父の通過儀礼「天王焼き」
「ハレ」と「ケ」、「カミの世界」と「ヒトの世界」
「カミの世界」の中にあるもの
『悪』の生命力
「カミの世界」の暗い『闇』と「お籠もり」
「小屋」の意味と、「神の世界」に於ける『死』
「死と再生」、そして「供儀」
「悪」「闇」「死」と「ホメオパティー」
人格は「影」とともに生きることを望む
「通過儀礼」の癒し
カミと触れる危険を回避するための「儀式」
現代社会に伝承社会の知恵を生かす
通過儀礼の要素を取り入れた「家づくりの授業」の試み
お籠もりの夜の儀式
父兄からの手紙

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「シュタイナー学校の家作りのエポック授業」と「通過儀礼」(1) 惺々舎 深田 真

はじめに

 これまでに行ったシュタイナー学校での「家作りのエポック授業」と、日本の民俗社会で行われてきた「通過儀礼」の意味について考えてみました。

 シュタイナー学校は、オーストリア生まれの思想家ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner1861年~1925年)の「アントロポゾフィー(人智学)」と呼ばれる世界観・人間観に基づき、自由で豊かな精神を持った人間形成を目標として芸術性にあふれた教育を行っている学校です。1919年にドイツで始まり、世界中に700校以上の学校があります。
 シュタイナー学校では、子供たちがファンタジー的な世界から客観的な現実の世界へ向かう、精神的な成長過程の中で重要な節目である「九才の危機」と呼ばれるこの時期に農作業や家作りの授業を行います。
 私が最初に担当したクラスでは三年生の春から秋にかけて農家の指導によって米作りを行い、翌春信州に場所を借りて、生徒と教師、私が一週間合宿をして広さ三畳ほどの小さな家を建てました。
 地面に穴をほって突き固め、家の礎となる沓石を据え、柱・梁を鋸で刻んで木組みを作り、屋根と床の板を釘で打ち付け、竹で壁の下地を作り、自分達で育てた稲藁と土を水で練って土壁を塗りました。
 家を築いていく中で、屋根がかけられ、壁が作られ、外界から守られた自分の内部空間が作られる体験をすることが、この時期の子供たちにとって必要なことだとシュタイナー教育では考えられています。そして、人工的な素材を使い、効率的に作られる現代的な建築方法ではなく、古くから行われて来た方法によって家を建てることにも大切な意味があります。現代の生活や思考様式の中でも伝統を尊重し、歴史的に正当な、人間的にも調和のとれた考察方法を身に付けられるよう授業の内容が考えられているのです。
  
秩父の通過儀礼「天王焼き」
 
 一週間の「家作りの授業」の間、子供達の様子を見ていてとても大きな体験をしていることを強く感じていました。そして、それは子供達の体験というだけでなく、共にその時間を共有した私にとっても大きな体験となりました。それはまさに特別な、非日常的な体験といえるようなものでした。
 その後しばらくの間、私はその体験の重さの意味を考えていたのですが、ある時「秩父の通過儀礼」という本を図書館で偶然手にしました。そこには小屋作りを行う子供達の通過儀礼が写真入りで紹介されていたのですが、その様子は「家作りの授業」の時の子供達の様子を思い起こさせるものでした。ドイツで始められたシュタイナー教育と、日本の伝統的な通過儀礼に共通するものがあることをとても興味深く感じました。
 それは、昭和五十四年の埼玉県秩父地方の記録なのですが、小学校一年から中学三年までの男子の子供たちが毎年夏に行う「天王焼き」という厄払いの火祭りを伴った通過儀礼が紹介されていました。
 子供たちは数週間かけて村の家々を回って麦藁を集め山で竹を切り、材料を集めて小屋を作ります。天王焼きの前日の晩はこの小屋で子供たちだけで一晩泊まる「お籠もり」をします。そして当日小屋の前で花火を上げ、最後に小屋に火を付け火祭りを行います。男の子だけで行うこの行事を、大人たちと晴れ着を着た女の子たちが遠くからそっと見守ります。

 その後民俗学のことなどを調べていく中で、子ども達が小屋づくりを行う行事はかつては日本のいたる所で行われていたことが分かりました。その中でもっともポピュラーなものに「鳥追い」という行事があります。
 「鳥追い」行事の場合もやはり天王焼きと同じように、子供達が小屋を作った後、そこに「お籠もり」をし、最後に火をかけて焼くというものが多いのです。

 「天王焼き」にしても「鳥追い」にしても小屋を作るだけでなく、そこで「お籠もり」をし、更にそれを火で「焼き払う」訳ですが、何故通過儀礼では「お籠もり」をし、わざわざ作ったものを「焼き払う」のでしょうか。実はこの意味を追求していく中でとても興味深いことが分かってきました。

 「ハレ」と「ケ」、
 「カミの世界」と「ヒトの世界」

 日本人の伝統的な生活態度の特徴のひとつは、社会生活を営む上で、「ハレ」と「ケ」を区別することです。「ケ」は日常態を意味し、「ハレ」は非日常態を意味します。近年の民俗学では、日常の世界の中ではケ(気)が枯れて、ケガレ(気枯れ)状態になるために、生命力(気)の回復のためにハレの祭儀が行われるという説が出されています。つまり、ケ→ケガレ→ハレというように、日常の世界「ケ」と非日常の世界「ハレ」を交互に循環することで、全体に調和の保たれた、平穏で健全な社会が維持されると考えられているのです。
 この「日常」と「非日常」の世界は、それぞれ「現世」と「他界」、あるいは「ヒトの世界」と「カミの世界」とも言い換えることが出来ます。

 人間の存在は、誕生と共に「カミの世界」から「ヒトの世界」に移行し、死と共に「ヒトの世界」から「カミの世界」へと移行する、と民俗社会では考えられていました。


 人間の人生の中で、妊・産・生・冠・婚・厄・祝・死などの折りに様々な通過儀礼(人生儀礼)が用意されて来ました。例えば、民俗社会では「七歳までは神の内」と言われるように、人は七年間という境界領域での移行期間を経た後に、人間世界での存在を認められます。人生の通過儀礼の大半は、生命体として不安定なこの七歳までの時期に集中して行われますが、その後も人生の節目の折りに繰り返し通過儀礼が行われ、人は「ヒトの世界」と「カミの世界」を何度も往還します。
 もちろん「ヒトの世界」と「カミの世界」の往還は通過儀礼だけでなく、様々な年中行事、祭祀でも行われます。また更に言えば、祭儀とは関係のないところでも、例えば四季の中で、夏は「ヒトの世界」(外的な世界)へ、冬は「カミの世界」(内的な世界)へと意識が向かいますし、同様に一日の時間の中でも、昼は「ヒトの世界」、夜は「カミの世界」へと意識が向かいます。それらの、大きな波、小さな波の往還運動の中で、人間の精神生活は健全に保たれるように出来ているのです。(文・深田 真)
「シュタイナー学校の家作りの授業」と「通過儀礼」(2)へつづく

シュタイナー学校の家作りの授業