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深田 真 Makoto Fukada 惺々舎主宰 大工棟梁 |
1959年 東京都杉並区に生まれる 1988年 指物師 山田嘉丙(茶道指物「 千匠」)に師事 1997年 深田真工房 開業 2003年 宮城県に工場及び材木ストックヤードを開設 2016年 深田真工房を「惺々舎」と改称 |
〈メディア掲載〉
「Journal of Traditional Building, Architecture and Urbanism」INTBAU Spain 2021 No.2 「住宅建築」建築資料研究社 2019 No.476 「住宅建築」建築資料研究社 2016 No.455 「住む。」農山漁村文化協会 2013 No.44 「住宅建築」建築資料研究社 2011 No.430 「考える人」新潮社 2006 No.16 「考える人」新潮社 2005 No.14 *掲載誌の記事はこちらから御覧いただけます。 |
私の生まれた家 (イラスト/深田 真) |
私の生まれた家 |
私の生まれた家(伯父と母)昭和九年 |
かつての日本家屋が皆そうであったように、この家もいつも大きく開け放たれていました。 庭の周囲は四つ目垣と生け垣で囲まれ、隣の家からも道路からも、草木の隙間を通して家の様子を覗くことが出来ます。 深く軒がせり出しているので、家の奥までは陽の光は入りません。家が開け放たれていても、昼間でも家の奥はひんやりとした暗さを湛えています。 南に面した縁側と茶の間のわずかな空間だけに日が当たり暖かいので、そこで日向ぼっこをします。 その頃の家にはまだ網戸というものもなく、昼間は家の内と外を分け隔てるものは何もありません。家の中を季節の風が気持ちよく通り抜けて行きます。 暑い夏はすだれを掛けて縁側にも日陰を作ります。打ち水と、風鈴のチリンチリンと鳴る音だけがわずかな涼しさを演出します。 冬の暖房は、炭火の掘り炬燵と火鉢でした。 火鉢の上の鉄瓶が白い湯気を上げる狭い茶の間だけが、家族みんなで暖を取る空間です。すきま風の入る家なのに、それでも特別寒い思いをした記憶がないのが不思議です。 座敷の西側は納戸になっていました。その部屋だけがいつも閉じられた闇の空間なので、子供たちは立ち入ることができません。もう使われなくなった三味線や、戦争の名残である軍服のようなもの。古い鏡台や箪笥、季節飾りなどがそこには仕舞われていたようでした。 縁側の西の突き当たりには汲み取り便所がありました。寝床から僅かの距離の便所なのに、子供にとっては納戸以上に怖ろしいところで、夜になると一人で行くことはできませんでした。 |
私の生まれた家 昭和三十八年 |
日が暮れると家中の雨戸を閉めます。そのとたん、だいだい色の電灯の光が灯る部屋の中に、静かな夜の時間が始まります。 父母と私と姉。四人家族でしたので、八畳の座敷に川の字に布団を敷いて眠ります。 その頃は、夜になると毎日のように不思議な体験をしていました。 夜、寝床に入って眠りにつく直前に、見上げている天井の隅の天井板がそっと開きます。そこには誰かが待っているようで、幼い私はそこに吸い込まれて行きます。婆娑羅な格好をした天井裏の住人たちに誘われ、毎夜どこか知らない世界へ連れて行ってもらいました。そして、朝目覚める直前に同じ天井板が開いて、私は寝床へ戻って来ます。目を開けると、今そこから戻ったばかりなのに天井板はきれいに閉じられていて、私は布団の中からその天井の隅をいつも不思議に思ってしばらくの間じっと見つめていました。 その婆娑羅な格好をした人たちのことを、私は今ではきっと座敷童に違いないと思っています。 この家は私が六歳になった年に取り壊されてしまいました。 怖ろしい闇や妖しい妖怪たちが住む家で、私は何故かいつも何かに守られているような深い安心感を持って暮らしていたように思います。 そのような体験をさせてくれたこの家のことが、私はとても好きでした。 この家が今の私の原点です。 いつか、そのような家を建てることが私の夢であり目標です。 深田 真 |