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木組み・土壁・石場建て「調布の家」の二階板の間ー設計施工・惺々舎


伝統構法による日本家屋設計施工


惺々舎



 惺々舎(せいせいしゃ)は伝統構法による木造日本建築の設計から施工まで全ての工程を一貫して行う工務店です。原理原則を守った純粋な伝統構法による住宅・店舗・施設の新築・改築・修繕工事の他、古民家・町家の保存修復・移築・再生工事、木工家具の製作を行っております。
 設計の打ち合わせから現場大工作業・工事全体の監督まで、棟梁深田自身が全ての工程を丁寧に心を込めて行います。
 惺々舎の建築は、丈夫で長持ちするだけでなく、身体に心地よく、安心で心豊かに住み続けることができます。そして美しく芸術性を持つ、自然環境と共生する未来へ向けての建築です。

 全国どちらへでも出張施工いたします。
 ご用命をお待ちしております。

日本家屋の建築家・大工棟梁 深田真

深田 真 Makoto Fukada
惺々舎主宰 大工棟梁


1959年 東京都杉並区に生まれる
1988年 指物師 山田嘉丙(茶道指物「 千匠」)に師事
1997年 深田真工房 開業
2003年 宮城県に工場及び材木ストックヤードを開設
2016年 深田真工房を「惺々舎」と改称

〈メディア掲載〉

「Journal of Traditional Building, Architecture and Urbanism」INTBAU Spain 2021 No.2
「住宅建築」建築資料研究社 2019 No.476
「住宅建築」建築資料研究社 2016 No.455
「住む。」農山漁村文化協会 2013 No.44
「住宅建築」建築資料研究社 2011 No.430
「考える人」新潮社 2006 No.16
「考える人」新潮社 2005 No.14

掲載誌の記事はこちらから御覧いただけます。

私の生まれた家・昭和初期の木造日本家屋
私の生まれた家 (イラスト/深田 真)

私の生まれた家
昭和初期の木造日本家屋のこと




私の生まれた家の絵を描いてみました。
昭和初期に建てられた木造の日本家屋です。
私は昭和三十四年に生まれ、この家で子供の時を過ごしました。

東京都杉並区本天沼。この家はJR中央線の荻窪駅から北に20分程歩いたところにありました。

120坪の借地に20坪ほどの広さの平屋の家が建っていました。広い庭には、たくさんの草花が植えられていました。
桜、松、椿、柿、桃、栗、紅葉、金木犀、山百合、つつじ、紫陽花、れんぎょう、水仙、雪柳、南天、からす瓜。

南東の隅に簡素な木の門があり、草木の間を通って玄関に至ります。
玄関の左には縁側があり、その奥に八畳の座敷があります。右には四畳半の茶の間があり、庭に面して濡れ縁があります。

茶の間の奥には台所があり、そこは僅か二畳の広さでした。

井戸が台所・風呂場・勝手口を出たところの三カ所にありました。
近くに神田上水の水源のひとつである妙正寺池があり、この辺は地下水が豊富だったようです。

台所の北側は風呂場で、その外に小さなカマドがありました。
風呂は薪焚きの木桶の浴槽です。

この家の冷蔵庫は木製で、氷を買って来て冷やすものでした。昭和三十年代。電気洗濯機や掃除機もまだ普及していない時代のことです。

木造日本家屋・天沼の家・昭和九年
私の生まれた家(伯父と母)昭和九年

かつての日本家屋が皆そうであったように、この家もいつも大きく開け放たれていました。
庭の周囲は四つ目垣と生け垣で囲まれ、隣の家からも道路からも、草木の隙間を通して家の様子を覗くことが出来ます。

深く軒がせり出しているので、家の奥までは陽の光は入りません。家が開け放たれていても、昼間でも家の奥はひんやりとした暗さを湛えています。
南に面した縁側と茶の間のわずかな空間だけに日が当たり暖かいので、そこで日向ぼっこをします。
その頃の家にはまだ網戸というものもなく、昼間は家の内と外を分け隔てるものは何もありません。家の中を季節の風が気持ちよく通り抜けて行きます。

暑い夏はすだれを掛けて縁側にも日陰を作ります。打ち水と、風鈴のチリンチリンと鳴る音だけがわずかな涼しさを演出します。

冬の暖房は、炭火の掘り炬燵と火鉢でした。
火鉢の上の鉄瓶が白い湯気を上げる狭い茶の間だけが、家族みんなで暖を取る空間です。すきま風の入る家なのに、それでも特別寒い思いをした記憶がないのが不思議です。

座敷の西側は納戸になっていました。その部屋だけがいつも閉じられた闇の空間なので、子供たちは立ち入ることができません。もう使われなくなった三味線や、戦争の名残である軍服のようなもの。古い鏡台や箪笥、季節飾りなどがそこには仕舞われていたようでした。

縁側の西の突き当たりには汲み取り便所がありました。寝床から僅かの距離の便所なのに、子供にとっては納戸以上に怖ろしいところで、夜になると一人で行くことはできませんでした。

木造日本家屋・天沼の家・縁側
私の生まれた家 昭和三十八年

日が暮れると家中の雨戸を閉めます。そのとたん、だいだい色の電灯の光が灯る部屋の中に、静かな夜の時間が始まります。

父母と私と姉。四人家族でしたので、八畳の座敷に川の字に布団を敷いて眠ります。

その頃は、夜になると毎日のように不思議な体験をしていました。
夜、寝床に入って眠りにつく直前に、見上げている天井の隅の天井板がそっと開きます。そこには誰かが待っているようで、幼い私はそこに吸い込まれて行きます。婆娑羅な格好をした天井裏の住人たちに誘われ、毎夜どこか知らない世界へ連れて行ってもらいました。そして、朝目覚める直前に同じ天井板が開いて、私は寝床へ戻って来ます。目を開けると、今そこから戻ったばかりなのに天井板はきれいに閉じられていて、私は布団の中からその天井の隅をいつも不思議に思ってしばらくの間じっと見つめていました。

その婆娑羅な格好をした人たちのことを、私は今ではきっと座敷童に違いないと思っています。

この家は私が六歳になった年に取り壊されてしまいました。

怖ろしい闇や妖しい妖怪たちが住む家で、私は何故かいつも何かに守られているような深い安心感を持って暮らしていたように思います。
そのような体験をさせてくれたこの家のことが、私はとても好きでした。

この家が今の私の原点です。
いつか、そのような家を建てることが私の夢であり目標です。

深田 真
伝統構法による石場建て・木組みと土壁「鴨川の家」の板の間から縁側を見るー設計施工・惺々舎