「シュタイナー学校の家作りの授業」と「通過儀礼」(4)

シュタイナー学校の家作りの授業
「死と再生」、そして「供儀」

 もともと、祭儀は「死」と分かち難いものでした。祭儀とは、そもそも「死」と引き替えに「生」(生命力)を共同体に導入する装置でした。
 ですから通過儀礼において小屋を焼き払うということは、小屋を供儀としてカミに捧げることであり、その供儀と引き替えに、子ども達とその共同体は「カミの世界」から生命力を与えられたのです。
 秩父の通過儀礼の中に「オヒナガユ」という子供の祭があります。河原で粥を煮て、お雛様と子供達が一日過ごすという行事ですが、昔はお雛様を川に流したといいます。お雛様という人形(ひとがた)を川に流す、つまりあの世へ送ります。今ではただ美しくのどかな雛祭りでさえ、その原型は人身御供であり、そこには「死と再生」のモチーフが伺えるのです。
 河合隼雄は供儀について次のように述べています。

  死の体験という点とも結びついて考えられる例として、王位継承の儀式がある。フレイザーの名著『金枝篇』は、そのような話で満ちている。フレイザーから例を引用しながら、論をすすめてゆくことにしよう。
 未開人の間において、王を殺害することによって王位継承が行われることが制度として存在することを、フレイザーは多くの例をあげて示している。これはつまり、王が衰弱して自然死をとげるまでに、その健全なる魂を後継者に転移せしめねばならないという考えに基づいている。王は絶対完全でなければならず、もし王が病気になったり、その多くの妻妾の欲望を満足させる力がなくなったりすると、直ちに王位継承の儀式、つまり、王の死刑執行がなされる。(中略)
 われわれから見れば、残虐としか思えぬ、これらの凄まじい儀式も、未開人の「無意識の知恵」の産物とみるとき、了解できるのである。すべての国や国民が体験せねばならない死と再生を、その代表としての王が文字どおり体験するのである。
「コンプレックス」 河合隼雄 岩波書店 1971年

 古い王は、国のケガレを一身に背負って供儀として捧げられます。供儀とは正に「生け贄」であり、生け贄である王を殺すことで、国には新たな生命力が吹き込まれます。王は供儀となることと引き替えに、最高の地位と権力を保障されています。
 心の中の通過儀礼も、心の拠り所となるものが「死」を迎えれば、人は新たな「生」を生きることが出来るのです。
 

「悪」「闇」「死」と「ホメオパティー」

 ここまで見てくる中で、「カミの世界」の中に存在する「悪」や「闇」、そして「死」の要素が「ヒトの世界」に生命力を導入する上で大切なものであることが分かってきました。「悪」「闇」「死」といった、通常私たちがマイナスのイメージしか持ち得ないものが、実は「ヒトの世界」に大切な役割を果たしているということをドイツ文学作家のミヒャエル・エンデ(Michael Ende 1929-1995)は「ホメオパティー」という概念で説明しています。

エンデ 「私が『治癒』というときには、ホメオパティー的な治癒のことをいうのです。ホメオパティーという言葉が一般に知られていないといけませんから、ひとことつけ加えますが、ホメオパティーの薬は、もともと毒、それも猛毒をもとにします。ただそれを薄めに薄めて、物理的には何の毒にもならないほど、希薄にしてしまう。あとには毒の潜在性だけが残ります。それがかえって逆に毒への対抗力を生ぜしめる。(略)ほんとうは、芸術というものは、すべて基本的にはホメオパティーです。ギリシャ悲劇でも、シェークスピア劇でも、舞台上では世にも恐ろしいことが行われますよね、あるいはひどく犯罪的なことが。でも、それは実際の犯罪、実際のおそろしいことの直接的行為ではありません。それは、芸術のフォルムに移しかえられた罪や悪の要素であって、それがちょうど正反対の力を、観る人間の中に呼び起こします。私は逆説的に、こう言います。舞台の上でモラルがお説教されればされるほど、観客はよけい非道徳的になる、と。芸術は本質的には非道徳的なものであり、道徳化されてはならないものだとすらいえます。例をあげてみましょう。(中略)オセロがデスモーナを殺すところを目にしても、そこに飛んでいく必要がないばかりでなく、それを楽しむことすらできる。その殺人を、エンジョイするのです。つまり、その瞬間、あなたは完全に日常のモラルから抜けだして、芸術の領域にはいりこんでいられます。芸術と日常とはまったく別のふたつの領域です。
 芸術とは、つねに真・善・美・を描きだしていなければならない、とする考え──この点、アントロポゾーフの中にも誤解している人がよくいますが──は正しくありません。真・善・美そのものを表現することが芸術の課題だった時代など、いちどでもありましたか?芸術はいつも、醜いもの、虚偽、悪を描いてきました。ゴヤの絵を思い出してください。あるいはミケランジェロ。ほんとうの芸術は、耐えられないほどの悪や罪を描きます。悲劇の名作なんか、ほんとうに耐えがたいものです。でも、それが舞台という魔術的な次元に移しかえられることによって、ホメオパティー的方法で観客の中に逆方向の力を呼びさまします。観客をかえって健康にしてくれる力です。それが芸術の秘密です。」

「エンデと語る 作品・半生・世界観」(エンデと子安美知子の対談より)
子安美知子著 朝日新聞社 1986年

 芸術という「非日常」の中で行われる「悪」は、「日常」の世界では逆方向の力を呼びさまし私たちを健康にしてくれるというのです。

人格は「影」とともに生きることを望む

 「カミの世界」と、私たちの「ヒトの世界」との間には常に均衡を保とうとする力が働いています。その均衡を保とうとする働きを意識的に利用しているのがホメオパティーという治癒の方法です。目に見えない「カミの世界」の「毒」や「悪」は均衡を保とうとする働きによって、私たち「ヒトの世界」に逆の力として作用し私たちの世界を健康にする働きをしています。
 心理学者のユング(Carl Gustav Jung1875-1961)は、この「均衡」を保とうとする働きを別の観点から見ています。「ヒトの世界」と「カミの世界」をユング心理学ではそれぞれ「意識」の世界と「無意識」の世界として説明しています。

「影」 shadow 
 1945年、ユングは非常に直接的で明晰な定義を影に与えた。すなわち、影とは「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」である。この簡潔な表現の中に、影について繰り返し語った様々な意味がすべて包摂される。たとえば、人格の否定的側面、隠したいと思う不愉快な性質すべて、人間本性に備わる劣等で無価値な原始的側面、自分の中の「他者」、自分自身の暗い側面などである。ユングは人の生における悪という現実を十分認識していた。
 われわれはみな影をもつこと、実体あるものは必ず影をもつこと、自我と影は、光とその影に対応すること、影こそがわれわれを人間らしくさせることなど、ユングは繰り返し強調した。
「誰もがみな影を担い、個人の意識的な生活のなかで影を実体化する度合いが低くなればなるほど、影はより暗く濃密になる。もし劣等な部分が意識されれば、人はそれを修正する機会をつねにもつ。さらに、その場合、劣等な部分が他のさまざまな関心といつも触れあい、ずっと変化しつづける。しかし、もし劣等な部分が抑圧され、意識から離れて孤立するなら、けっして修正されることなく、気づかぬうちに表に突然現れやすい。あらゆる点で、それは無意識の思わぬ障害となり、われわれのもっとも善意に満ちたもくろみを邪魔する。」
 (中略)影が生きた人格の一部であり、何らかの形で「人格は影とともに生きることを望む」ことを認識し、まず第一に、影を個人的無意識内容と同一とみなした。このような無意識内容を扱うと、人は本能との折りあいをつけざるをえず、本能の表出が集合的なものによる統制にどのように従ってきたかに馴染んでいかねばならなくなる。その上、個人的無意識の内容は、集合的無意識の元型的内容と分かちがたく融合しており、集合的内容自体、自身の暗い側面を含みもつ。言い換えれば、影の根絶は無理である。それゆえ、分析心理学者は「影と折りあいをつける」という表現を用いて、分析中の影と直面するプロセスを表すことが非常に多い。
 影が元型であるとき、その内容は強力で、情動によって特徴づけられ、自律的で、とりついて離れず、逃れようのない力をもつ。すなわち、秩序立った自我を驚愕させ、圧倒する力をもつ。意識に入り込む力をもつ内容がすべてそうであるように、影の内容は、はじめ投影に現れる。しかも、意識が脅かされた状態や疑いに満ちた状態にあるとき、影は、肯定的にも否定的にも、身近な人に対する強力で非合理な投影となって現れる。この点にユングは、なぜ個人的な好き嫌いが生じるのかだけでなく、現代の残酷な偏見や迫害についても納得のいく説明を見出した。
 影に関する限り、影のイメージを意識化し、個人の生活のなかで影の投影をもっとも生みやすい状況を認識することが、心理療法の目的となる。影を認めることは、影の強制的な支配力を断つことである。

「ユング心理学事典」 A・サミュエルズ他著 創元社 1993年

 

 ユングの云う「影」とは「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」、つまり心の中にある「悪」や「死」などのマイナスイメージを持たれるものの総体です。それら、私たちの無意識の中にある「悪」や「死」などは、意識化される機会がなければ極端な形で現実の世界に表出するか、若しくは私たちの心に強制的な支配力を行使します。それゆえ心理療法では普段意識化されることのない無意識の中の「影」を、夢分析や箱庭などを通して意識化し「影」と直面することを目的のひとつとするのです。
 このように考えると、芸術や祭儀とは無意識の中にある「影」、つまり「悪」「闇」「死」などを表現しそれらを意識化させることで「意識」と「無意識」のバランスを取り、そのことによって「カミの世界」と「ヒトの世界」を健康に保とうとする人間の優れた知恵であると言うことが出来ます。
(文・深田 真)

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