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第三章 世界観を反映する「日本家屋の間取り・意匠・設え」


 この章では、前章において考察した、前近代の日本人が共有していた世界観が、実際の日本家屋の間取り・意匠・設えにどのように反映されているのか、そしてそのような日本家屋に暮らすことが、そこに暮らす私たちの内的世界にどのような作用を及ぼすのかを考察します。


1.「鴨川の家」から見る日本家屋の間取り


 日本家屋の間取り・意匠・設えを解説するに当たり、まず「鴨川の家」の間取りを見て行きます。

 この家の間取りは、伝統的日本家屋の中でも特に農家の間取りの「型」に倣い、それをコンパクトに構成し直しました。

鴨川の家の平面図・惺々舎
「鴨川の家」の平面図    (設計施工/惺々舎)


 入り口を入ると土間があり、土間は台所を兼ねています。
 一段上がった板の間は居間・茶の間であり、家族団らんの場です。
 更に僅か上がって日本間(畳の間)が二部屋あります。
 板の間も日本間も床坐で生活をします。
 南側には縁側が通ります。

鴨川の家・惺々舎
「鴨川の家」    (設計・施工/惺々舎)

 日本家屋の空間は、土間から板の間へ、板の間から畳の間へと床高が上がるに連れ、俗なる空間から聖なる空間へと、空間の質が変化します。

 土間は、農家では収穫した野菜の土を落とし、選別する場であり、藁細工などを行う作業の場でもあります。また嘗ては竈のある炊事場であり、厩などと地続きの、日常性の最も濃い俗なる空間です。

 板の間は、家族が憩い、食事などを行う、茶の間とも呼ばれる日常生活の場です。嘗ては囲炉裏などもあり、一部は台所・炊事場として使われることもあります。床高は土間から一段上がりますが、通常は土間と仕切られることはありません。土間と同様に天井は張られず、小屋組があらわしとなる俗性の濃い空間です。

 板の間から一寸から二寸(30mm~60mm)ほど床高が上がる日本間(畳の間)は、客間や寝室、子供部屋や書斎を兼ねます。
 日本家屋は、一部屋を多様な目的で使用することが可能であり、それが特徴のひとつでもあります。また、家具は極わずかしか置かず、簡潔な設いとすることも伝統的日本家屋の特徴です。
 畳の間は、板の間よりも格式が一段上がり、本来は日常的な家具が置かれることのない、清浄さが求められる空間です。

 日本間の床には「畳」が敷き詰められます。
 畳は藁を糸で差し固めた床(とこ)と、その表面に藺草を編んだ畳表を付けた、厚さ二寸(60mm)程の敷物であり、適度な柔らかさがあり床座の生活を快適にします。

 日本間から更に僅かに高い位置にある床の間は、闇を湛えた特別な空間です。ここは、現世と他界の境界領域であり、書や工芸品、生花、神仏への供物などが飾られます。家屋空間の中に於いて、日常性と非日常性の均衡を保つための、そして内的世界を豊かにするための日本家屋の「型」の中でも最も重要な聖なる空間です。

床の間・惺々舎
「鴨川の家」の床の間   (設計施工/惺々舎)

 ひとつの家の中で、俗から聖へと床高による境界を設け、暮らしの中に抑揚を付け、家という空間に秩序をもたらすことが、かつての暮らしの「型」として大切なこととされていました。

 庭に面した縁側もまた、単なる通路ではなく、伝統的日本家屋にとって重要な空間です。日常的には、日向ぼっこ、身近な来客と憩う、保存食を作るために野菜や果物を日に当てたり乾燥させる、軽作業を行う、などのための場ですが、それよりもより重要な役割として、家の内部と外部、自然と人間、二つの世界の境界領域に位置し、双方の世界を分別し、かつ繋ぎ、交感するための空間です。
 日本間に坐し、縁側、そして奥行きの深い軒下の陰影に富んだ空間を通して、庭や周囲の自然環境を観賞する時、一幅の優れた絵画以上に屋外の庭や風景が魅惑的に語りかけ、この呪術的な空間の深い意味を感じ取ることが出来ます。

縁側・惺々舎
「鴨川の家」の縁側    (設計施工/惺々舎)

 伝統的な日本家屋は、床の間・縁側をはじめとして境界領域を繊細に設ける仕掛けに特徴があります。


2.「昭和初期の日本家屋」から見る、間取り・意匠・設え


 次に、町家・都市型住宅を参考にしながら、伝統的日本家屋の特徴を見て行きます。

 私が生まれた家は、昭和8年(1933年)、私の祖父母によって東京の杉並区に建てられた日本家屋でした。その家は、伝統的な木造日本家屋の「型」に倣って建てられていました。昭和30年(1955年)代頃までは、そのような家が東京にもまだ多く残されていました。その昭和初期の日本家屋のイラストを見ていただきながら、「型」に倣った間取り、意匠、設えを見て行きます。

私の生まれた家・昭和初期の日本家屋・惺々舎
私の生まれた家 〈東京市杉並區 昭和八年築〉     (イラスト/深田 真)

 私は幼少期をこの家で過ごしましたが、私はこの家がとても好きでした。何かとても安心感を与えてくれる家だったのです。
 その後、現代的な家やマンションなどで暮らしたこともありますが、そのような家とはまったく違う、とても奥行きが深く幻想的な、生命力を感じさせてくれる家でした。
 延べ床面積は20坪程の家なので、夫婦と子供二人、四人家族で住む家としては大きい家ではないのですが、何故かとても広い家のように感じていました。

 建てられた当初のこの家の設備ですが、電気は来ていましたが、水道とガスはまだ来ていなかったようです。そのため、台所と風呂場と庭、合計三カ所に井戸がありました。そして勝手口を出てすぐ左に竈があり、七輪も使っていました。
 風呂は小判型の木桶の浴槽で、薪焚きの釜が組み込まれているものでした。この家が建てられた当時は、風呂は銭湯を利用する家が多く、風呂付きの家はまだ多くはありませんでした。
 竈や風呂焚き用の燃料とする薪は、庭の枯れ木や枯れ葉、剪定した幹や枝を使っていました。ビニールやプラスチックなどの石油製品が普及する昭和30年(1955年)代以前は、包装資材は紙や植物製でしたので、家庭ゴミのほとんどは燃やすことの出来る貴重な燃料になっていました。
 便所は汲み取り式で、昭和20年(1945年)代頃までは近所の農家さんが、牛に曳かせた荷車に肥桶を積んで、定期的に下肥を汲み取りに来てくれていました。

 暖房は、四畳半の茶の間は長火鉢と炬燵。八畳と六畳の日本間には、陶製の火鉢が置かれていました。

 当時は、電気製品もまだ普及していませんでしたので、電気を使うのは電灯とラジオくらいでした。冷蔵庫は木製の冷蔵庫で、電気で冷やすのではなく、氷屋さんが届けてくれる氷で冷やすものでした。
 昭和初期の日本の電気と石油の消費量は、およそ現在の百分の一ほどでした。

 この家の南側(イラストの下側)には緑豊かな庭がありました。敷地が120坪ありましたので、家の大きさの割には広い庭で、たくさんの花卉と樹木が植えられていました。
 桜、松、椿、柿、桃、紅葉、金木犀、山百合、つつじ、連翹、紫陽花、水仙、雪柳、南天、からす瓜…。
 戦時中から戦後に掛けての食糧難の時には、この庭で薩摩芋や南瓜を作りました。空襲が激しい時には小さな防空壕も庭の隅に作りました。

 家の南東の角が四畳半の茶の間です。一家の食事や憩いの時間、日常のほとんどはこの部屋で過ごします。この部屋にはちゃぶ台と茶箪笥が置かれています。
 この部屋の東側の広いガラス窓の外側には欄干があります。ガラス窓を大きく開け放ち、窓台に腰掛け、欄干に片肘を掛けて外を眺めるのも気持ちのよいものです。
 茶の間の南側の掃き出し窓の外側には濡れ縁があります。ご近所の顔見知りのお客様は、玄関ではなく濡れ縁から声を掛けてくれます。濡れ縁に腰を掛けて、一服しながら世間話をして行きます。

私の生まれた家・惺々舎
私の生まれた家 (伯父と母) 東京市杉並區 昭和九年

 茶の間の北側が台所です。台所の広さは僅か一坪でした。そこには造り付けの収納庫と食器棚がありました。東側に勝手口があり、外に出てすぐ左側に竈と薪置き場・炭置き場があります。台所の中と、すぐ外側に井戸があります。
 台所の北側が風呂場です。風呂場にも東側に出入り口があり、そこから風呂の焚き口に入ることが出来ます。

 そして茶の間の西側が玄関です。玄関を入って正面に六畳の日本間、その西側が八畳の座敷です。
 六畳間は書斎であり、来客が宿泊する時には寝室になります。この部屋の窓にも欄干があります。
 八畳の座敷は、接客のための空間であり、西側に床の間を備えた最も格式の高い部屋です。座敷の北側には地袋があり、その上には丸窓が取られています。その右側には桐箪笥が二棹置かれています。
 座敷は夜になると家族の寝室になり、家族四人が川の字になって眠ります。座敷の南側には縁側が通り、その縁側と深い軒の南側に広がる庭の花卉や樹木の景色を座敷から楽しみます。

日本家屋・惺々舎
「青梅の家」の座敷    (修復工事 設計施工/惺々舎)

 床の間の北側には納戸があり、納戸の中に布団を収納する押し入れがあります。納戸の中は昼間でも暗く、子供にとってその闇はとても怖ろしく、近づくことができない場所です。
 縁側の西側の突き当たりが便所です。夜になると便所もまた幼い子供にとっては怖ろしい所で、ひとりで行くことのできない場所でした。

 この家は東京郊外の町家・都市型住宅ですが、明治時代に入るまでは、このような専用住宅はまだ少なかったようです。江戸時代までは、武家屋敷・農家・商家・工人の家、というように、職業と暮らしが一体化した家がほとんどであり、職業と暮らしが分離した庶民が暮らすための都市型住宅の多くは長屋のような簡素な住まいでした。

 この家のような都市型住宅は、勤め人のための家であり、暮らすことだけを目的とした専用住宅です。専用住宅は、明治後期・大正から昭和に掛けて、都市に仕事を求めて人口が集中する時代になって、庶民の住宅として広く普及しました。
 住宅建築の歴史の流れでいえば、書院造り・数寄屋造りといった公家・武家住宅の系譜の影響を強く受けていますが、その背景にある世界観自体は、農家や商家など、どのような住宅とも共通しており違いはありませんでした。
 そして、この家が建てられた昭和初期は、そのような世界観を日本人が共有していた最後の時代だったのだと思います。その後十年程して第二次大戦が始まり、敗戦後はアメリカの価値観・世界観がこの国を凌駕し、席巻して行きました。そして戦後間もない昭和25年(1950年)に建築基準法が施行された影響もあり、それ以降に建てられた新築住宅には、伝統的日本家屋の「型」に倣ったものはほとんど見られなくなりました。そして高度経済成長に伴い、古い木造日本家屋の多くが建て替えられ、失われて行きました。そしてかつての世界観が顧みられることもほぼなくなりました。

 高度経済成長が始まる前の日本家屋は、庭の花卉や樹木を愛で、寿命が尽きた草木は風呂や竈で燃やす。大地の下を流れる地下水を汲み上げて飲食や風呂に使う。排便は近所の農家の肥料として大地にお返しする。東京の都市周縁部であっても、エネルギー産業や近代的インフラに暮らしの基盤をまるごと預けてしまうのではなく、周囲の自然環境とギリギリのところで折り合いをつけ、その循環と接点を持ちながら、人の暮らしが成り立ち得たことをこの家は示しています。


3.日本家屋の「境界」


 この家の周囲、隣家と道路の境は塀がなく、四つ目垣と生け垣で仕切られています。当時は近所のどの家も、垣の隙間から庭や家の様子が窺えるような家ばかりでした。
 庭の作りと同様、家の作りが開放的であることも、江戸時代後期以降の日本家屋の特徴のひとつです。このイラストを見ていただいても分かるように、収納部分と便所・風呂場以外にはほとんど壁がありません。
 この家も、暖かい日中は家の周囲の窓が大きく開け放たれ、家の中を季節の風が通ります。庭の草木や生け垣の緑が明るく反射して、家の中を照らします。

 玄関の土間には沓脱ぎ石があり、そこで履き物を脱いで上がり框を上がります。玄関の土間は、家の内と外の中間に位置する境界領域です。作法に則って、外から人を迎え入れ、そして送り出す、小さな儀式の場です。内と外を繋ぎ、「自然の空間」と「人間の空間」を繋ぎ、かつ、靴を脱ぎ、上がり框を上がることで空間の分別を付けます。
 土間から上がる床上の空間には、外の土は持ち込まず、清浄な空間とすることも日本人の住まいの「型」の特徴です。

日本家屋の玄関・惺々舎
「世田谷の家」の玄関   (設計施工/ 惺々舎)

 日本家屋は建具や障屏具にも大きな特徴があります。

 日本家屋の玄関の建具は、多くの場合、格子戸が用いられます。
 格子戸もまた、繋ぎながら分別を付ける、優れた両義性を持った境界装置です。屋外側からは暗い室内の様子を伺うことが出来ませんが、室内側からは、格子の隙間から外の様子を伺うことが出来るように作られています。室内側には、格子戸から漏れる光の筋が美しい陰影を作り、風情のある玄関の空間を作ります。

 縁側や日本間の窓にはガラス入りの木製引き戸が入ります。そしてガラス戸の外側には、木製の雨戸が入ります。雨戸は日中は戸袋の中にすべて仕舞われるので、雨戸を開けると、外に面したすべての開口部から日照を取り入れることが出来ます。
 明治後期に板ガラスが普及するまでは、ガラス戸のところには明障子(あかりしょうじ)が入っていました。明障子の和紙がガラスの役割を担っていたのです。

 台所・風呂場・便所の窓には防犯のために格子が嵌められていました。玄関の格子戸と同様に、格子が作る陰影は美しいものです。
 それ以外の外に面した開口部には、すべての窓に雨戸が設けられていました。
 日が沈み夜になると、戸袋に仕舞われていた雨戸を滑り出して、すべての雨戸が閉められます。玄関にも雨戸があり、家族の皆が帰宅すると、そこも閉じられます。
 そうすると開放的だった室内空間は外部から完全に閉ざされた空間に変貌します。そして屋外の音が遮られ、家の中には、オレンジ色の電灯の明かりだけが頼りの、暗く静かで内向的な籠りの時間が始まります。

 この時代の家には、網戸はありませんでした。網戸が普及し出したのは昭和30年(1955年)代からでしょうか。それまでは、虫の多い夏季は寝床に蚊帳(かや)を吊りました。蚊帳は透けた細かい網目状の麻布で作られていて風を通します。とくに蒸し暑い夜などは、寝室の雨戸だけは開けて、夜の涼しい風を寝室に通します。蚊帳が吊られると、寝室の中にもう一重別の空間が生まれ、静けさに包まれた蚊帳の中で、夏の虫の声を聴きながら眠りにつきます。

 日本間と縁側の境には障子が入ります。日本間と日本間の境、日本間の押入との境には襖が入ります。

 細い木材を格子状に組んだ骨組みに、片面に一層だけ和紙を貼ったものが障子、両面に幾層にも和紙を重ね張りしたものが襖です。光を通し、柔らかく空間を仕切る場合には障子を用い、空間に分別を付ける場合には襖を用います。

 この家の縁側と日本間の境の障子は、額入り障子といって、和紙が貼られた面の一部分だけにガラスの入った障子で、障子を閉めた時にも、室内からガラスを通して外の様子を伺うことが出来ます。

 障子を通したぼうっとした光りは、明る過ぎず暗過ぎず、障子の幾何学的な縦横の桟の陰影と共に、温かくほのかな明かりが神秘的で独特な空間を作ります。

日本家屋の陰影・惺々舎
「美杉の家」の障子の陰影    (修復工事 設計施工/惺々舎)

 襖の特徴は、何層にも和紙が貼られていることです。骨組みの上に、骨紙張り、打ち付け張り、蓑張り、蓑張り押さえ、袋張り、清張り、上張り、というように、上等な襖は十層以上の和紙が張られる場合もあります。
 そこまでして幾層もの空気層を作ることで、暖かく、柔らかく、やさしく空間と空間を仕切り、かつ繋げます。

 障子と襖は、鴨居と敷居の溝に添って滑らせることで開閉します。またこれらは簡単に取り外すことが出来るので、冠婚葬祭などの、人が集う時には複数の部屋を一体化して空間を広く使います。
 襖・障子は、格子戸と同様に、いずれも境界領域に於いて、空間を隔てながら、同時に繋げるという、アンビバレントな作用をもたらします。そして、異なる空間、異なる世界との交感を促し、繊細な感覚を誘うような仕掛けが施されています。

 かつての日本家屋の多くは、年二回、建具替えを行っていました。六月頃に、襖は簾戸(すど)に、障子は御簾(みす)に替え、九月下旬頃に元に戻します。初夏になって、簾戸と御簾に入れ替えることで、室内空間はより風通しが良くなり、すっきりとした涼しげな表情に替わります。

 襖と障子の上部、鴨居と天井の間の小壁には、欄間(らんま)が入ります。欄間には、小障子・組子・彫り物・透かし彫りなどの技法を用いた、多彩な種類の意匠があります。通風と明かり採りの役割も持ちますが、欄間もまた、空間と空間を仕切りながら繋げ、かつ芸術性を併せ持つ、優れた境界装置としての役割を担います。

 その他にも、日本家屋には境界装置が数多くありますが、そのいずれも仕切りながら繋げる両義性を持っています。
 簾(すだれ)は、葦(よし)・刈萱(かるかや)・蒲(がま)・細く削った竹などの材料を編んで作られた障屏具です。夏の日差し除けのために軒下などに吊り下げられます。目隠しや雪防ぎに用いられることもあります。
 葭簀(よしず)は、通常は簾と同様に葭(よし)が用いられますが、より太い部分の葭が用いられ丈夫に作られています。建物などに立て掛けて日除けなどに使われます。

 簾や葭簀も、室内側から見ると、格子よりもより繊細な光りの筋が美しい陰影を作り、涼しげな風情を醸します。風鈴や金魚鉢、花火などと共に、涼感を誘う夏の風物詩といえるでしょう。

 暖簾(のれん)は、日本家屋の台所口などに、目隠しや日除けのためによく使われます。暖簾もまた、空間を仕切り、隠しながら、繋がりを持たせる境界装置です。貴族住宅である寝殿造りの間仕切りとして使われていた帷(とばり)が起源だといわれ、布帛でつくられるものがほとんどですが、中には麻縄などを何本も結び垂らした縄暖簾のようなものもあります。また、江戸時代頃からは商店の軒先の看板としても多く用いられています。

 このように、障子・襖・格子戸・窓格子・欄間・簾・葭簀・暖簾などの境界装置が、仕切りながら繋げる、という両義的な役割を担うところに日本家屋の特徴があります。そして同様に、深い軒下の空間・縁側・濡れ縁・窓の欄干・玄関の土間・床の間も、内と外、自然と人間、現世と他界の境界領域において、そこに両義的であいまいなあいだの空間を供えることで、ケガレを祓い、ふたつの世界の交流を促し、生命力を活性化する役割を担っています。